association internationale pour une politique industrielle des technologies de l'esprit
2005年9月24日
コリーヌ劇場
ベルナール・スティグレールの発表のテクスト
1.ARS INDUSTRIALISの会合、特に今回の目的の確認
われわれはコリーヌ劇場で行われるARS INDUSTRIALISの中心となる一連の会合を世界情報社会サミットと呼ばれているチュニスサミットの課題に関する議論から始めることに決めた。その理由は、
:国連の庇護の下で行われるこの会合の背景で、われわれが「マニフェスト」で精神テクノロジーと呼ぶものに直接関わる分だけ、地球の未来を条件付けることになる問題が論じられる、あるいは隠されるとはいわないが、論じられないかもしれないと考えるからである。
:ARS INDUSTRIALISは精神テクノロジーという問いに関して、集団的に態度を表明すること、そしてそれに関する国内的・国際的議論に参加するためにその立場を可能な手段によって報せること第一の目的にしているからである。その基になるのは、このテクノロジーが新たな形の公的力によって考えられる政治・産業に関わる経済の対象となるという主張である。
つまり、われわれの会合の目的は、ここでの発表やそれが引き起こすであろう議論によってチュニスサミット前の11月の始めにわれわれが発表したいと思っている動議書の作成の要素を提供することである。それについては、チュニスの準備として11月10日にバリバオで行われる「持続可能な発展、文化とアイデンティティー」というテーマの別の会合でそれを伝えるつもりである。
11月5日に同じ時間、同じ所で行われるARS INDUSTRIALISの会合は知識テクノロジー、その概念化、ナレッジ・マネジメント、つまりそのテクノロジーが支える組織としての装置に向けられるだろう。これは今回の会合の続きでもあり、より実践的な提案へと向かう方法でもある。それは知の生産の道具と呼べるだろうものに関するソフトの概念化とテクノロジーの概念を提案すること、あるいは研究開発の投企にもなるだろうと思われる。
2.<社会の情報化>から<情報社会>へ
ここ十年来情報社会と呼ばれているもの―それは、イヴ・チャペロとリュック・ボルタンスキーが『資本主義の新たな精神』
[1]
で強調するような、様々な領土的障壁の清算だけでなく、遠隔操作の一般化による、当初はeコマース、<仲介>、免税化などとして理解され、またグローバル化の具体化の決定的な要素になるだろうもの、さらに近年では例えばユネスコで知識社会と呼ばれ始め、それ以後(人工知能からデーターベスを経てオフィスオートメーションにいたる)知識テクノロジーの流布やいわゆるサービス産業という第三次産業化のために知識資本主義あるいは知識産業と呼ぶのが通例になっているもの、そして道具を外在化することで、マーケティングによる概念化の装置と行動のコントロールに存する資本主義―これら全ては次のものから生じる。
:1992年以来のArpanetやTCP-IPが世界規模で市民に拡張することによるネットワークの発展。これらは、ビル・クリントンとアル・ゴアがいわゆる「情報ハイウェイ」としてアメリカ政府の投企の戦略的要素としたものである。
:それに続くデジタルの一般化。それはフランスでは1978年に公式の報告が一部予測し、特にマイクロコンピューターとミニテルの到来を予言した「社会の情報化」と呼んだものを大幅に超えるものである。
言い方を変えれば、1990年代は視聴覚、コンピューター、テレコミュニケーションテクノロジーの「統合」の時代と言えるだろうし、それはARS INDUSTRIALISのマニフェストで、コミュニケーションの文化テクノロジーと情報の知識テクノロジーとして分析したものの統合であり、その集合体は精神テクノロジーを構成すると言えるだろう。もっとも、目下の所はヴァレリーが精神の価値の低下と分析したもの、つまり、マルクーゼとはかなり異なってはいるが
[2]
、それに対応してもいる脱崇高化の過程と私が考えるものの一因となるばかりであるが。この点に関しては、10月から国際哲学コレージュで行われるセミナーで再論することになるだろう。
3.闘争の対象としての精神、新たな<備忘録>、<世界の再魔術化>とヨーロッパ
言い方を変えれば、チュニスサミットの課題は、情報、知識、文化だけではなく、リビドー経済に端を発する崇高化する力を持つものとしての精神、崇高化としての社会化である。それは、デジタルの一般化がその新たな形式を生み出す常に備忘録
[3]
を介して行われる。
それが、経済的・政治的闘争の目的であるが、より正確に言えば、現状の真の意味での転覆であり、それによって今日「精神の価値の低下」を導くものを全く反転させること、つまりデニス・ケスラーがMEDEFの夏期セミナーで「世界の再魔術化」というテーマに関して、未来の経済における知識の役割に関する発言を通じて希望を託しながら述べたように、精神の価値の上昇の時代へと反転させることといえるだろう。
ここでケスラー氏が、この点に関してアンソニー・ブレアーがCAP(共通農業政策)への財政の割り当てを知識産業の発展のために知識テクノロジーに向け直すように提案した際の発言に言及していることを強調しておこう。そしてまた、<世界の再魔術化>というテーマが当時のMEDEF会長、アーネスト-アントワーヌ・セリエによっても提案されるようになったことも忘れないでおこう。彼は、有名になった『変化に直面する指導者』の序文で次のように言う:「今世紀の始まりは西洋にとってのテクノロジー的蓄積による優位の終焉を告げる。今日、新たな国際的条件の基礎をなすのは人的資源である。教育、育成。知識の経済は空虚なスローガンではないのだ。」
[4]
つまり、問題は「蓄積による優位」の保護、あるいは再構成のための国際的な闘争における地政学的、つまり地政経済的なものでもある。しかし、セリエ氏がここでは触れていない文脈、つまりインド、中国、あるいは日本という非西洋的エイジェントが知識のテクノロジーに関して発明を行っているなかでは、問題は西洋内部でアメリカとヨーロッパを区別し、精神テクノロジーの政治的・産業的特殊性をなすもの、企業の観点からの世界だけでなく、ヨーロッパという投企を再魔術化する可能性がないかどうかを知ることである。
4.精神テクノロジーの時代の企業、長期的ビジョン、新たな公的力、産業的ポピュリズム
この点において、われわれARS INDUSTRIALISの創立メンバーは企業をこの変化の中心的エイジェントとは考えていない。それは、次のように言うMEDEFとは逆である:「企業は、世界を見据えながらも、足は地元に据え、今日では世論とリスクの国際化、消費者の同質化、そして国際的制度・規制の極めて現実的な特殊性に最も適応した組織である。」
われわれがそれを信じないのには次の二つの理由がある。
:まず一つに、セリエ氏にとって、「これらの分析は大きな産業的戦略の終焉を告げる。(…)競争相手の行動に対する連続的、柔軟な適応である」という意味だからである。私自身は最近、この適応が最終的には産業と資本主義にとって致命的なものであり、この適応モデルが必然的にエントロピー的悪循環に捉えられており、それが「動機の喪失」
[5]
(そして、この意味で「精神の価値の低下」)を招くことを示そうとしてきた。ARS INDUSTRIALISでは、精神テクノロジーの産業政治を定着させることは、公的・私的エイジェントを新たな産業的文明で連携させることによって、つまり現在の産業的組織の困難を超えることによって、全く改めて考え直された公的・国際的な新たな力によって導かれる長期的行動以外ではあり得ないだろうと考えている。
:また他方で、現在の組織を超える必要に関しては、知識の経済、つまり知の社会への拡張には到達せず、全く逆に産業的ポピュリズムに基づくことで、堕落の一般化の過程となるという事実により、セリエ氏が序文を書いた『TF1 反動性の流儀』で、パトリック・ルレは躊躇なく語る:「テレビ視聴者の脳は自由に使えるものでなければならない。われわれの番組はそれを自由使えるようにすることを使命としている。われわれがコカ・コーラに売るのは、自由に使える脳の時間である。」
[6]
5.産業の公理を変更する時が来た
われわれARS INDUSTRIALISでは、こうして自由使えるようになった脳の時間によって「知識(そして知、さらに情報)の社会」の方向に向かうことはないと考える。それは管理社会と呼べるものの最悪の場合であり、レイ・ブラッドベリーとフランソワ・トリュフォーが『華氏451度』が予測したものである。もう一度、ルレを引用しよう:「われわれは秒単位で、24時間後に顧客を「知る」ことの出来る世界で唯一の商品である。毎朝、前日の仕事の成果を正確に知ることが出来る。(…)『スター・アカデミー』は真の社会現象となった。それを誇りに思わないわけにはいきません。若者において最高の視聴率を記録しました。それは決してわれわれのイメージに傷がつくようなものではありません。私にとってそれは、統御された反応性の例でさえあります。」
[7]
ところで、われわれも知の社会の名に値するもの、そしてそれを支える知識経済は必ず、制作者・消費者、起業家も政治家もますます洗練された精神の生活へと上昇していくものと考える。それは、崇高化の結果として欲望の最も社会化された形式がますます多様化し、ますます散種することによってである。別の言い方をすれば、『変化に直面した指導者』で、セリエ氏は大きな社会的知性に訴えかけ、TF1が何一つ躊躇うことなく「世界の脱魔術化」の恐るべき効果として、痴呆化の一般化を組織する方法を描くルレ氏の著作の序文を書いているが、それは分析され、乗り越えられるべき矛盾を表しており、それは恐らく起点となる公理、つまり産業的パラダイムの変化を前提にしていると思われる。つまり、明らかに何か「しっくり来ない」ものがある。
ところで、これらの矛盾は「情報社会」のそれであり、その現実の課題は国連、およびEUの公式の文章ではわれわれには隠されている。他方、原理的にそれのみが知の社会、つまり知識の経済へと向かうことを可能にする産業のパラダイムの公理の変化は、リスボンサミットと同様にチュニスサミットの文脈でとられるべき政策であるが、バロゾ氏は情報社会をヨーロッパの戦略の中心に据えた
[8]
。
6.情報社会、脱魔術化、動機の喪失、知のコントロール
情報と知識の社会と経済が話題になる時、MEDEFにとってそれが魔術化の問題となるのは、この経済がまずリビドー的であり、精神に関わる問題が単に情報や知識、さらには知の問題でさえなく、動機、動機付け、投射することを可能にする理由の問題である。これは、われわれが心的・集団的個体化と呼ぶものの問題である。
産業、資本、知に関して言うと、私が言ったように、<文化>あるいは<知識>の資本主義の時代に生きている。マルクスが100年前に脱魔術化と言い、正書化
[9]
のプロセスの段階として私が分析したものの矛盾をその極点にまでもたらした時代は、知の管理、生産と消費に関する知の管理と研究開発、デザイン、マーケティングによるその機能的統合に存する。
生産の側、されにその上流ににおいて、概念化(広い意味でのデザイン)があり、それがテクノロジー革新と概念の新しい時代を生み出す。情報社会は、現状では、この知を体系化するが、その結果は次のようなものである。
a.知のネゲントロピー的構造に矛盾しながらも不可分なエントロピー的傾向として分析されるものが生み出される、研究と思想の手段化の新しい時代である。
b.知の手段化の新たな時代は、数十年前には日常生活を構成していた方法論と生き方の同時の喪失の過程に対応している。
c.方法論と生き方の喪失は個体化、すなわち単独性、別の言い方をすれば欲望の喪失であり、それがいわゆる「情報」社会の今の実質的現実である。
d.精神テクノロジーの産業的政治経済が、精神の産業的エコロジーと名付ける一般的問題として、練り上げられねばならないのは、このあらゆる種類の知の喪失の傾向に対して闘争するためである。
7.知の道具化と手段化
このしばしば混乱を招く点についてよく理解しておく必要がある。知の道具化、さらには(今日では道具は産業的なのだから)その産業化を非難すべきなのではない。逆にわれわれが原理とするのは、全ての知が道具化を前提にしているということである。それを支え、条件付ける技術—論(techno-logique)ということである。
しかし、この道具化は今日、手段化に達する。それが事実なのである。ところで、この事実は乗り越えられるし、そうしなければならない。それには権利を対立させうるし、対立させねばならない。
この事実の乗り越えは、管理社会とそのテクノロジーの問題へと送り返される。この点における、われわれの考えは次のようなものである。バローズとドゥルーズが語った意味で、現在の管理社会とその技術は来るべき個体化の可能性でさえある。未来があり得るのは、この管理技術を個体化の技術にする場合のみである。それは、メソポタミアやエジプトの管理技術が備忘録として、市民と呼ばれることになる特異性の新しい形象を生みだし、それによって権利を事実から分離するものを生み出すことで、ギリシアにおける個体化の技術になったようなものである。
8.ハイパー産業社会と知の再興
ハイパー産業化の追求は避けられないが、それが可能なのはそれが自己破壊的になる限界を見定めるという条件においてのみである。人間に関わる全ての伝統的システム(例えば、人口学的システム)が極限に達し、その結果新たな知や知の再興に基づく社会の可能性は、それ自身知識テクノロジーによって可能になる知の道具化によって獲得される可能性であるが、それは明らかに人間的生命を定義する枠組みとこれらのシステムの間で新たな関係を発明することで限界を乗り越えるための条件である。
それこそが、コミュニケーション・情報テクノロジーが精神テクノロジーとして一般化・社会化することによって文明化される新たな産業社会となる「情報社会」の本当の課題である。それは、これらの産業がデジタルによって統合されるために、あらゆる役割が再定義されつつある産業的変化を引き起こす分だけ可能になる。われわれは多くの事柄を変化させ、発明することが出来る時代を生きているのである。
それゆえ、知のハイパー産業化を批判すべきではなく、あり得べき未来にするべく考えねばならない。問題は、敢えて言うならば、ハイパー産業時代の精神の持続可能な発展ということになるだろう。
この持続可能な発展には、知性のテクノロジーとしての位格をもったデジタル的道具性を概念化しなければならないが、それは現行の産業的技術革新のモデルに従っては概念化されることも、発展させられることも出来ない。このモデルは精神の価値をなすものとは両立不可能なのだが、それには少なくとも二つの理由がある。
9.知と情報
一方では、情報テクノロジーは、商品としての価値をもつ情報のコントロールを目指す限り、本質的にエントロピーである価値を生み出す。商品としての情報は、時間と共にその価値が減ずる。ところで、知は本質的にネゲントロピー的なものである。その性質から言って、知はその価値が維持されるものであり、時間と共に強化され(増加の概念は質を評価するには不適切であり、カントやルネ・トムの意味での強度によって考える必要がある)、豊かにもなる。知が、人間の経験を伝達に向けて形式化する本源的蓄積を下地にして、時代や歴史的断絶の過程を組織する限り、時間を構成するのだとさえ言える。
こうして、われわれは知の社会が情報テクノロジーによって支配される社会として、知それ自体の終焉、つまり変形しながらも時間を通じて維持されるものの終焉だと明らかになるかどうかという問題に直面する。情報社会、知識経済、知識資本主義は知が情報的である限り権力となるものである。リオタールは『ポストモダンの条件』で既に書いている:「知は販売されるために生産されているし、そうなるだろうし、それは新たな生産においては消費されることで価値がますし、そうなるだろう。どちらの場合も、交換されるためである。それは自らが目的であることをやめ、<使用価値>を失う。」
二つの価値概念の間には対立があるが、それは二つの時間との関係である。知が生産者となること、経済発展という命令に屈することは、リオタールが「行為性」によって「ポストモダン」を特徴づけるものであるが、それが行き着くのは「(方法論)論なき方法となる傾向のある実体的・実証主義的知への危険な回帰である」
[10]
。
商品としての情報は、知の情報化の真実であるが、それが本質的にエントロピー的であるのに対して、知は本質的にネゲントロピー的である。情報・コミュニケーションのテクノロジーに支えられた知の社会には内的矛盾がある。知の社会はこうして内在的な脆弱さに晒されている。少なくとも、それが批判されず、その批判が知の新たな組織化や情報のエントロピー的効果の限定を提案しなかった。
この内的矛盾は、精神の産業的エコロジーの問題である。しかし、精神が産業的エコロジーの問題を経験するのは、精神があるところそれを支える物質的環境が存在する限りである。それはフッサール(『幾何学の起源』)やルロワ・グーラン(『身ぶりと言葉』)、さらに最近ではグッディーが示したことである。
記憶術によって構成された知と記憶の社会から、記憶テクノロジーによって構成された知と記憶の社会、つまりハイパー産業時代への移行があるならば、その変化は、ミッシェル・セール
[11]
は、記憶の機械への外在化の結果として、知を発展させることに専念できるようになったために、記憶の社会から知の社会へ移行したと言ったが、彼が言うように知を獲得することで記憶が失われるということはない。彼の分析は、記憶の外在化が人間の起源でさえもあり、それが同時に起源以来、それ自身外在化される知の条件であることを見落としている。記憶は最初から、新たな知的あるいは運動的振る舞い、さらにはその両方として再内在化された外在化なのだ。それは、常に既に「集団的・客観的」であり、そのためにまた外在化の過程は正書化の過程でもあるのだ。
10.知と記憶、あるいは無知の支配?
プラトンが(『パイドロス』において)記憶の外在化によって、想起(アナムネーシス)、つまり知が失われ、それと矛盾する外的記憶(ヒュポムネーシス)が得られると考えたからといって、われわれもまた彼のように考えねばならないということではない。『パイドロス』は実際、エクリチュールが記憶の死である外在化として提示される対話編であり、真の記憶とは魂のそれ、つまり生きた記憶であるということである。実際、プラトンはその条件が、自らの外部に投射され、過去把持の限界を超え出うることであり、それによって世代間の記憶の伝達が可能になることを見逃している
[12]
。
逆に、それに伴う個体化でもある内在化の装置が備わっておらず、そのために知、すなわち個体化の喪失を招く外在化が突きつける危険を考えることもできる。こうして、(ギリシアのであれ現代のであれ)学校は本の存在に依拠し、(基礎教育としての)エクリチュールの学習の場として、文字化された知の歴史に手短に再接近し、それを取り込み、知識の過去が未来として練り上げるものから個体化することを可能にする組織である。ARS INDUSTRIALISはこのテーマで一度会合を行うことになるだろう。
知の社会は、精神テクノロジーの政治によって定義され、ヨーロッパ規模での新たな公的な力を働かされる新たな外的記憶(ヒュポムネーシス)装置を社会的に取り入れることで組織化することによって個人的・集団的想起の能力を組織化する必要性を見逃していることが明らかになれば、それは疑いなく非—知の社会だろう。それはソクラテス的意味ではなく、無知が支配する新たな時代という意味である。私がここで想起の能力とよぶものは、ソフィストに対する哲学者の観点から知を定義するものに起源を持つものであり、以前知のネゲントロピー的性格、つまりロバチェフスキー幾何学にユークリッド幾何学が回帰するような意味での、知の回帰として特徴づけたものを指す。フッサールはこの知の非回帰性を、知の生成におけるその起源の永遠の再活性化の過程と分析した
[13]
。
11.脱個体化のリスク
知の情報化は、新たな無知の社会を発展させてしまうという確かな脅威とともに、より合理的で効率的な新たな段階の外在化によって、心的・集団的個体化としての知の強度化と質的飛躍をなす確かなチャンスでもある。
しかし、この情報化が、テクノロジー的・産業的統合として、概念化・生産・消費を唯一の知識のシステムにあわせてしまうデジタル化となり、特に、テレビなどのマスメディアがまもなくこれら三つの審級におけるエイジェントとなり、さらに「自由に使える脳」の時間が、教育に費やされる期間に、すなわちまず子供から、集中力に関して大衆的に占有される限り、知の社会の問題はまず明日の社会におけるテレビの位置、テレビとデジタルメディアの間で結ばれる新たな関係、そして明らかに必要とされ、発明されねばならないこの領域での公的政治の問題である。
個体化は常に心的かつ集団的であり、知を知とするのはこの「かつ」、すなわち根源的・不可分の紐帯である。心的個体化としての「私」が考えられるのは集団的個体化の「私たち」に属する限りである。別の言い方をすれば、知が知であるのは、分有されるかぎり、つまり公的になる限りにおいてである。
今日の課題は、それゆえ記憶の喪失ではない。というのは、記憶の喪失は、無機的なものの組織化、再内在化を必要とする原初的外在化として根源的なものなのだから。そうではなく、人類の歴史でずっと行われて来たように
[14]
、個体化の様々な審級の間の移動を導く個体化の喪失が問題なのだ。それと共に、エントロピーのリスクは個体化の審級が移動し、再組織化されるだけではなく、弱体化し、ネゲントロピーとしての個体化が心的なもの・集団的なもの・機械的なものの間の解消できない対立のために衰弱するということである。
問題は、取り入れを知の新たな情報の道具性に適応させることによるその再組織化である。別の言い方をすれば、知、あるいはむしろ無知の増加のリスクは、情報の外的記憶構造の適切な取り入れの欠如によるエントロピー的脱個体化の過程のリスクである。
12.知識の飽和とナレッジマネージメント:第三次産業から考えられた知の道具
今日支配的事実になっているのは、貧窮化(知識の貧困化)としての個体化の喪失と情報の知に対する増加である。これは、例えば情報過剰症候群として分析されたものであり、意志決定(知識の分析的な獲得に続く総合)を容易にはせず、それを麻痺させる。情報は知識や方法論にではなく、処理できないデータとなる。
これらの困難に答えようとするのが、ナレッジマネージメントの道具であるが、それは科学的知識という意味ではなく、経営的なモデルによるものであり、経営において、知識というのは決断を可能にするものということである。この道具には固有の要求と効果があるが、科学の世界で提起されるような情報のエントロピーには対応していない。
ところで、教育・研究という知の活動の最近の道具化は、第三次産業に由来する物質・ソフト・サービスの副次的効果から生じた。これらの部門には真の意味での投資はなかった。知の生産ラインは全体として考え直されることはかったし(出版業界で行われなくはなかったが)、その結果はひどく退行的ではないにしても、一般的にはがっかりさせるばかりのeラーニングや教育ソフトのモデルであった。
実際、この一連の道具を生み出す市場は産業界には回収不可能と考えられている。その意味では、まだ市場でもないのだ。この事実は公的権力は生産から独立した知の世界を公的保証によって回収可能な経済にすることを全く断念した。しかし、知の世界が生産の世界において、あるいはそれによって起こされる、問題含みのさらなる無関心のために、公的権力がそうするように促されたのは認めなければならない。
デジタル的道具性の領域において、回収不可能性は単に未だ電力が供給されない20億の人のものだけでなく、その知が直接には有益でない人のものでもある。それは、人間・社会の科学の話ではなく、基本的な知性の道具に関して研究施設の設備一般の話である。
13.知の道具とそれらが実践的規則として生み出す選択の基準
[15]
、アルファベットは全ての論理と文法、全ての言語科学、科学一般に先立ち、全ての知の技術—論的(それが常に既に技術的であり、かつ論理的でもあるという意味で
[16]
)条件であり、外在化から始まる正書化の過程を構成する。情報テクノロジーの一般化とそれが基づく知の再定義はこの正書化の過程を、記憶術の社会の時代から記憶テクノロジーの社会の時代、つまり外在化が新たな知識の機能を代行させられる装置へと行われる段階への移行として構成する。ところで、書記が生産から切り離されている社会から生産が知に基づき、書記を吸収、あるいは生産から切り離された領域に属するものとしてそれらを排除した社会への移行である。
記憶は、直接的現在に関する情報も含めて(情報が極めてしばしば基づいている直接の記憶)、記憶と構想力の強大な産業を構成する投資の対象となる。あらゆる産業活動と同様に、それは記憶と構想力(つまり、予測)、消費者と生産者を区別することを課する規模の経済に向かう。記憶は過去把持の活動として、選択の活動であるが、記憶の産業化は本質的に記憶と構想力(予測)を組織する新たな選択基準にある。例えば、それはグーグルがヨーロッパに課する問題に表れる(極めて表面的であり、例としては貧しいが)。
知の道具はその実践によって、固有の選択基準を固有の実践規則として生み出すという事実によって特徴づけられる。
エコロジーという問題が提起され、そうされうるのは、精神がその起源から外在化されているからであり、それゆえに産業的に取り込まれ、搾取されるようになる。それは、第三次産業で行われているように、実践規則を支配し、単純なプロセスに還元する情報・コミュニケーションテクノロジーが存在して以来のことである。それ以来、情報・コミュニケーションテクノロジーは精神のエコロジーの大きな危機を考えられるものとし、あり得るものとするパラドックスである。
来るべき知の社会は、情報の実践が情報による知の破壊ではなく、情報の組織化が知の命法に従うような新たな知の組織化として概念化されるような社会だろう。
14.科学技術における存在と生成
科学技術は存在、つまり知を永遠と問題にする。それはその意味で知が絶えず変形していく時代であるが、固有の意味での技術―論的な新たな時代はまた知の存在論的な投企の放棄でもある。
教育機関で表れている知の危機は、知がもはや存在ではなく、生成を探求することを目指すことにあるが、知は存在するものを形式化することであると教え続けている。この危機は知性の新たな道具性の登場と結びついているが、それは、まさに科学が科学技術化することの直接の結果であるために、教育の構造には取り入れられていない。それ以来、潜在化することによって、現実になる要因が蓄積されるが、その現実は無知の拡張と言うより、知の社会の発展にある。
科学技術は、可能的なものの体系的探求として、慢性的に不安定を生み出すが、それは高速で行われる計算処理となる知の機能を使用することにつながるだけでなく、可能的なものの探求が常に公理的、(特に生物学において)価値論的危機を生み続けるからである。その危機とは、構成された知の伝達は実際上不可能となり、教育、育成を担当する側は、教えられることと根本的に異なった日常生活で学ぶ側が毎日出会う知の現実に構造的に時間をとられることになる。
さらに言えば、教育機関は今のところ全く知の外在化の観点からは考えられてこなかった。コンドルセ、ギゾー、フェリーはこのように考えなかった。それは、20世紀に関する考古学が明らかにしたこと、つまり、学校がなによりまず初等教育で獲得される数字と文字という外在化の技術、合理的想起を支えるアルファベットという外的記憶の取り入れの装置を学び、内在化することにあることを知らなかったからであろう
[17]
。
15.精神のエコロジーの危機はまず教育の危機として表れる
しかし、私が『純粋理性批判』の読解において悟性概念の超越論的演繹に関して示したように
[18]
、知とその伝達の組織化はこの起源の外在化に基づいて合理的知を構成するが、カントは超越論的構想力の第四の総合、つまり義肢的総合と私が呼んだものを見逃していた。現代社会における教育システムが構成している教育プログラムの制度は、情報・コミュニケーションの外在化の装置を占有した文化・情報産業を構成するプログラム産業の発展を前にして何の策もない。
これらの事実は、知を弱体化する情報のエントロピーや科学の意味の変化と結びつき、それは教育システムの危機を必然的に生む。これら全ての事実から結果するのは、精神のエコロジーの危機はまず教育の危機として表れるということである。
しかし、危機にあるのは、公的、私的なものであれ、知を伝達するだけでなく生産する制度であることを見て取らなければならない。というのは、教育のプログラムの制度が明らかに時代遅れになる分だけ、知の情報化のパラドックスがそれらの制度に影響を与えるからである。
現在統合が行われつつある情報・コミュニケーションのテクノロジーと共に、新たな知の一連の道具は構成されているが、それはアルファベットという記憶術の登場(とそのお陰で発達した計測と実験の道具)が可能にした道具性に加わり、現在大きく発展中である。ところで、デジタル的道具性とわれわれが呼ぶものの特殊性と可能性を考慮することで、この一連の生成を支え、方向付けることは可能であるし、それは欠かせないものでもある。現在の知とその伝達のあり様の危機は解決不可能なものではない。さらに、その根本で脅かされているのは、崇高化としての社会化の過程である。その結果、公的政策がひつようになり、チュニスサミット、そしてそれに続いて議論の対象となるべきなのはこの問いであろう。
16.実践的帰結
この道具性が一連の知の生産と流布を構成する限り、それは道具の機能を変化させ、特有で、位階をそなえ、反転可能なものとすべきである。それが意味するのは、次のようなことである:
1.
知の道具の機能は、オフィスオートメーション、資料の電子的管理、情報システム、ナレッジマネージメントが応用されるだけの下位分野ではありえない。ところで、それは今日では、知の活動がデジタル産業にとって回収可能な市場をなさず、公的権力は、この分野で長期的な制作を提案できないために、何の保証ももたらしていない分だけ当てはまる。
2.
知の生産の道具はその使用者に応じて特化し、学的な道具的実践を、消費の世界も含めて時代遅れとなった生産モデルに従ってではなく発達させなければならない
[19]
。
3.
しかし、知を流布する道具は知を生産する道具と同様に原始的な道具性を働かせねばならない。それは、単純化された形ではなく、知の共同体を特徴づける記憶術あるいは記憶テクノロジーによる共同体化の原則を遵守してである。知の言葉の受け手は、それが使う外在化を通して(つまり想起として使う外在的記憶の実践を通して)技術―論的に起源を辿り直せるものだけである。
知の社会の編集産業はプログラムを命ずる制度のために、それを流通させ、編集するもの命法に従うことなく、形成されねばならない。それは、なによりもまず、それを命ずる制度が、取り入れ(機械的に外在化された知と機械を使用するものの道具的実践の間のトランスダクティブな関係性としての内在化)の規範を定義する新たな知の生産の道具を手にすることを前提にしている。別のいい方をすれば、二つの仕事がまず優先的に行われねばならない。
1.
命ずる側、すなわち高等研究・育成機関のために新たな知の道具を開発すること。
2.
教育・育成機関のための新たな編集機能を生み出すことによってこの知の道具性の広がりから成果を引き出す編集産業を発達させること。
これが可能になるのは、次のような条件の下である:
1.
デジタルテクノロジーが知的な課題に真の意味で適したコンピューターによって支援された知的仕事の道具を発達させること。例えば、それは知的なテクストの分析・批判・議論・インデックス化・総合であり、そのためのテクノロジーは今日では仕事の道具と知的活動の分割のような知の組織化に革命を行うのに全く成熟している。事実、道具は適切な投資がないために発達しないが、それは政治的・産業的明確さと意志の問題である。
2.
プログラム産業は今日では、このような目的に適した新たな視聴覚プログラムを提供出来るようになること。その例は、デジタル化・非線形化しうる時間対象であり、受け手を脱大衆化し、コンピューターに支援された道具の統合を可能にするものである。この点に関しては、私が1997年にINAで開発したハイパーメディアの制作スタジオ
[20]
や教育省の監修の下音楽教育に関してIrcamで開発したハイパーメディアの作品を参照されたい。
3.
一連の知の道具の構成は知の生産の源になり、コミュニケーションの基盤として使われるだけでなく、そのような道具が実践されるのを前提にしていること。それは、視聴覚の領域であれハイパーテキストの領域であれ、仕事・協同・集団的思考の基盤として実践されねばならない。これらが実際、情報・コミュニケーションの支配的な経済モデルと全く逆行し、そのため現在では回収不可能と考えられている、作り手と受け手の社会の構成を可能にするのである。
これらの問題は知識のテクノロジーを扱い、EUがチュニスサミットで行う提案の分析を行うARS INDUSTRIALISの次回の会合で改めて取り上げられるだろう。
[3]
この概念に関しては、ミッシェル・フーコー「自己のエクリチュール」『フーコー思考集成』参照。それに関する私のコメントは『不信仰と不信』、また外的記憶一般に関しては『現勢化』、『技術と時間Ⅱ:方向喪失』を参照。
[7]
p.93。ルレ氏はここで彼が発達させたもの、つまり『スターアカデミー』がM6の『ロフトストーリー』に対する反応であり、それが「TF1の家族的イメージにしっくり来ないように思われる。しかし、エンデモールと、労働と芸術的成功という積極的な価値をもったリアルTVのよりソフトなバージョンの契約を密かに結んでいた」と言っている。このリアルTVの概念のいくつかの側面については『象徴的貧困Ⅱ』でコメントした。